暦のこと (4) 太陰太陽暦
「月の満ち欠け」で計算した12ヶ月(354.367068 日)と実際の1年(365.2422 日)を比べると分かるように、「太陰暦」のままでは約2.7年間で約1か月分(約29.4日)の差が生じます。これは季節が暦と少しずつずれて行くことを意味します。そこで「太陰暦」に補正を加えて「太陰太陽暦」として運用されました。「太陰太陽暦」では、この補正のために 2~3 年に1度だけ「閏月」を挿入して1年を13ヶ月としました。より正確には19年に7回(19年/7回≒2.7年/1回)です。19年に7回の閏月を挿入するというのは「メトン周期の原理」によっています。すなわち太陽暦の19年は、月の満ち欠け(塑望月)の235回に相当するというものです。235回とは、太陰暦では19年+7ヶ月です。この余分な7ヶ月を19年間のどこかに挿入することで辻褄を合わせるのです。閏月は「二十四節気を調整するような場所」に挿入されました。

「暦のはなし(光陽出版社)」によると、二十四節気の設定方法には「平気法」と「定気法」の2つがあります。寛政暦までは平気法が用いられ、その後の天保暦と現在(換算の時)は定気法が用いられます。ごく大雑把に言うと平気法は「地球が太陽を中心として正円軌道で公転する」と仮定することによります。定気法は「地球が太陽の周囲を楕円軌道で公転している」ことによっています。ケプラーの第2法則に従って、地球は「近日点では速く移動」し、「遠日点では遅く移動」します。近日点では季節の変化が速く、日本では冬の変化が速くなります。秋分から春分までは178日20時間、春分から秋分までは186日10時間です。季節の変化は「地球と太陽との距離」で決まるのではなく、「地球が公転軌道のどこに存在するか」で決まります。

閏月をどこに挿入するかを決めるのは置閏法によります。平気法で定めた二十四節気の場合は単純です。二十四節気には節気と中気がありますが、中気を正月(1月)から順に並べると、2~3年に1度だけ「中気の存在しない月」が生じてしまいます。この部分に閏月を挿入し、閏月以外の全てに中気が存在するようにします。天保暦での二十四節気は定気法で決められていました。定気法での置閏法はあまりスマートとは言えません。まず春分を含む月を2月、夏至を含む月を5月、秋分を含む月を8月、冬至を含む月を11月と決めます。中気が含まない月が複数あっても、そのうちどこか1ヶ所に閏月を挿入するというものです。この二十四節気は、昼と夜の長さが等しい春分と秋分・ 昼が最も長い夏至・ 昼が最も短い冬至で4分割されていました。さらに、それぞれの間が6等分されており、地球が太陽の周囲を回る公転の際の「位置」を反映します。従ってそれは「季節」を反映します。農耕民族にとっては、こちらの方が重要です。それなら初めから太陽暦を使えば良さそうなものですが、当時は太陽暦のノウハウが伝わって無かったと思われます。まずは直感的に分かり易い月の満ち欠けを利用(太陰暦)するのが合理的です。

明治5年(1872年)12月2日までは「太陰太陽暦」が用いられました。太陰太陽暦にはいくつか種類があって、最後の太陰太陽暦は天保暦(正式には天保壬寅元暦)です。これは江戸時代の天保15年(=弘化元年)から明治5年12月2日までの29年間用いられました。その翌日からは「グレゴリオ暦(太陽暦)」です。旧暦(天保暦)のままだと明治5年の大晦日は12月30日(大の月)のはずでした。明治5年12月3日から明治5年12月30日までの28日間(4週間)は存在せず、明治5年12月3日に相当する日が、新暦の明治6年 1月1日としてリセットされました。単純な計算で「新暦→旧暦」の計算が出来る訳ではなく、当時は「旧暦と新暦の対照表」がありました。「暦のはなし」によると、その中で最も使われていたのは明治13年(1880年) 12月に内務省地理局が作った「三正綜覧」です。小林セキさん(小林多喜二の母)は、ちょうど改暦があった年(明治6年)に生まれており、誕生日は明治6年8月22日(新暦)です。旧暦に換算すると明治6年「閏6月」30日ということになります。もし改暦が行われなければ、本来の明治6年は(旧暦の)閏年であり、1年が 13ヶ月あるはずでした。「閏6月」というのは、6月と7月の間に挿入された「別の6月」のことです。旧暦だと、この年は1年が13ヶ月あるはずでした。ちなみに小林多喜二が生まれた明治36年も(旧暦に換算すると)閏年でした。セキさんが生まれた年(旧暦で考えた時)には「閏五月」が存在します。このように、閏月に生まれると「現在の感覚で考える誕生日」が2~3年に1度しかありません。そのようなことがあるので旧暦では、元旦に皆が一斉に「歳をとる」システムなのだと考えられます。三正綜覧は長暦です。長暦とは、ある暦法に従って過去に長く遡った暦のことで、言わば「暦の対照表」です。三正綜覧では日本暦(旧暦とグレゴリオ暦)・中国暦・イスラム暦・西暦が記載されています。西暦については、グレゴリオ暦より前のユリウス暦も記されています。私の手元にある初版(明治13年版)では明治36年までが載っています。上巻(乾)が孝元天皇元年(紀元前447年)から天長10年(833年)まで、下巻(坤)が承和元年(834年)から明治36年(1903年)まです。



日本の旧暦は天保暦で、清の旧暦は「時憲暦」です。いずれも太陰太陽暦であり、2~3年に1度の閏月により季節を調節します。清では1645年から1911年まで時憲暦が用いられました。これには初めて定気法が採用されました。日本の旧暦(天保壬寅元暦)は天保15年元旦(1844年2月18日)から採用されました。この天保暦にも定気法が用いられており、もともと中国の時憲暦が下地になっていると思われます。回暦と書かれているのはイスラム圏の「ヒジュラ暦」です。このヒジュラ暦は「純粋太陰暦」です。時々閏月を挿入しますが、これは時間調整のためのようです。季節調節のためには挿入しませんから、暦の示す月日は少しづつ季節とずれていきます。月(moon)を何よりも重要と考えています。1年を通して大きな気候の変化が無ければ生活に影響はないという理由もありそうです。天保暦と時憲暦は同じものと考えて良いようです。従って、三正綜覧において日本の改暦以降の日付を清の時憲暦に置き換えれば「新暦→旧暦」の変換が出来ることになります。逆から見ると「旧暦→新暦」の変換も出来ます。この稿では省略します。

<補足>
現在でも、閏日(2月29日)に生まれた人は誕生日が4年に1度しか来ないことになります。たしか法律的な年齢の決定は「前の日の24:00」だったと思います。例えば2月29日に生まれた人は「2月28日の24:00」に歳をとるのです。「2月28日の24:00」は「2月29日の0:00」と等しいのですが、こうしておくと2月29日が存在しない年でも「2月28日の24:00」は必ず存在します。学年の決定もこのシステムに連動していると思われます。4月1日に生まれた人は「3月31日の24:00」に歳をとります。おそらく法律上は3月生まれという事になるので、4月1日生まれの人が「早生まれ」に含まれるのだと思います。ただし私は法律的な背景を専門的に知っている訳ではありません。


センター長  2019/09/02(Mon) 20:33:49
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